富士見市の歴史
最終更新日:2019年1月25日
はじめに
富士見市は、関東平野の中央近く、東京から北西へ約20キロメートルに位置します。市域の東側を荒川や新河岸川が南北に貫き、西には武蔵野台地が広がります。このような地理的位置や複雑な地形から、この地域は様々な人や文化が出会う場となってきました。「出会い」をキーワードに富士見市の歴史の概略を紹介します。富士見市の歴史をさらに詳しく知りたい方は水子貝塚資料館や難波田城資料館をお訪ねください。
旧石器時代 生活のはじまり
現在、富士見市で発見されている最古の遺跡はおよそ3万年前のもので、谷津遺跡(鶴馬)などで石器が発見されています。このころから約1万5千年前までは旧石器時代と呼ばれています。現在より著しく寒冷で、海面が現在より100メートル以上も下がっていたために、海に流れ込む川も深く谷を刻みました。当時、市内の東部には40メートルを越える深さの谷が刻まれ、河原には、古期利根川と呼ばれる大河に運ばれた石がびっしりならんでいました。その河原からはるかに見上げる台地の上にはローム層が形成され、狩りや生活の場となっていました。市内十数カ所の遺跡から石焼料理の跡や石器を作った跡が発見されています。
右の写真は「谷津遺跡から発見された旧石器」になります。
縄文時代 海と山の出会い
およそ1万2千年前から、地球は急速に温暖化し、海面が上昇しました。海は、深く刻まれた谷に沿って、内陸深くまで進入しました。富士見市域も東半部や、江川や柳瀬川の谷に海が広がりました。台地の上には、木の実が多く実る落葉広葉樹林が茂りました。このような自然の恵みに満ちた地に人々が集まり、およそ 6千年前に打越遺跡や国指定史跡水子貝塚などの大きな貝塚遺跡が作られました。これらの村は単なる居住地にとどまらず、海の資源を持った人々と山の資源を携えた人々が出会い、交流する場であったと考えられています。およそ5500年前に海が退き、人口が激減してしまいましたが、4500年前ごろには陸の恵みを活かした生活により、再び大きな村が成立しました。このころの市内最大の遺跡である羽沢遺跡からは、ムササビを象ったと思われる土器が発見され、深い森に包まれた生活を偲ばせます。
右の写真は「国指定史跡水子貝塚」になります。
弥生・古墳時代 稲作との出会い
今からおよそ2500年前、九州北部に水田稲作と鉄器と青銅器を合わせ持った文化が伝わり、その影響はたちまち全国に伝わりました。弥生時代のはじまりです。しかし、関東地方で本格的な稲作が始まったのはおよそ2100年前(紀元前100年)頃です。市内では、西暦100年~200頃に爆発的に集落が増加します。県内でも最大級の集落跡である南通遺跡(針ヶ谷)には300軒を越える住居跡が残され、村を囲む溝や炭化した米などが発見されています。村の有力者は1辺10メートル程度の四角い墳墓に葬られるようになりました。北通遺跡(針ケ谷)ではこのような墳墓の中央から、副葬された長さ61センチメートルの鉄剣やガラス玉の首飾りが発見されました。この鉄剣は当時の東日本で際立った長さであり、実用を越えた権威の高さを示すと思われます。西暦250年頃に古墳時代が始まりますが市内の遺跡は減少し、貝塚山(渡戸)出土とされる鉄刀や、いくつかの集落跡が残されているばかりです。
右の写真は「北通遺跡の方形周溝墓」になります。
奈良・平安時代 「文明」との出会い
奈良・平安時代には、律令制度や仏教、漢字に代表される大陸文明の普及が図られます。富士見市域も、武藏国入間郡の一部となり、再び遺跡が増加し、規格化された建物跡、文字の記された土器、仏教に関わる遺物が発見されるようになります。栗谷ツ遺跡(針ケ谷)では須恵器の窯跡や硯などが発見されています。宮脇遺跡(鶴馬)では、密教の儀式に用いる道具を鋳造した工房が発見され、東台遺跡(水子)では瓦搭(土製の仏塔)の破片が出土しています。平安時代の中頃に、住居の構造に大きな変化が起こります。縄文時代以来の竪穴住居が廃れ、平地住居となったのです。このため遺跡が残りにくくなり、平安時代後半の富士見市域は、文献資料も考古資料も皆無に近い空白の200年になります。この間に大きな歴史の動きがありました。武士の誕生です。
右の写真は「宮脇遺跡の鋳型」になります。
鎌倉~戦国時代 難波田氏の盛衰
平安時代に盛んに行われた耕地の開発は、開発者を地域の有力者として成長させました。自ら武装して開発地を守るようになった彼ら「武士」達は地縁・血縁を辿って徒党を組んでいきます。「武蔵」の名を負う埼玉・東京地域には有力な武士団が多数ありましたが、そのうちの一つが埼玉西部から東京北部を本拠とする「村山党」です。村山党の中心である金子氏の支族が、鎌倉時代に難波田の地を与えられたのが難波田氏の始まりといわれています。
難波田氏は羽根倉合戦の敗北などの危機を乗り越えて、武藏西部の有力な武士として活躍しましたが、天文15年(1546)の川越夜戦で難波田善銀(弾正正直)が討ち死にするとともに没落してしまいました。下南畑には、難波田氏が築き拠点とした、県指定旧跡の難波田城跡が残されています。
市域の大半は難波田氏の領地だったようですが、東大久保は古尾谷荘の一部、針ケ谷は柏城(志木市)を拠点とする大石氏の領地だったようです。
右の写真は「難波田城跡橋脚」になります。
江戸時代 河岸場の出会い
江戸時代に入ると、この地域は半ばが川越藩領、半ばが天領(幕府領)となり、江戸を支える近郊農村としての性格を強めていきました。江戸と川越を結ぶ動脈として新河岸川の舟運が整えられ、市内にも6箇所の河岸場が整備されました。河岸場では、江戸から送られた肥料や工芸品と、三芳・所沢地域から陸路を運ばれた農産物などが、行き交いました。こうした物資とともに芸能や学術・娯楽などの文化も伝えられ広まっていきました。
江戸近郊には、領地を越えて、将軍家や御三家のための「鷹場」が設定されていました。入間南部から多摩北部の百数十カ村は尾張徳川家の鷹場に指定され、富士見市域はその北東隅に位置していました。この鷹場を管理する鳥見陣屋3か所のうち1か所は水子村におかれていました。鷹場の村々は、鷹狩りの手伝いに動員される他、日常生活にも厳しい規制が加えられていました。
右の写真は「新河岸川舟運」になります。
明治~昭和戦前 近代との出会い
江戸幕府が倒れると、市域8カ村は、版籍奉還・廃藩置県などのめまぐるしい行政区画の変遷を経て、埼玉県の所属となります。明治22年、全国的に町村合併が励行され、市域では、東部の4村(東大久保、上南畑、下南畑、南畑新田)が南畑村、勝瀬村と鶴馬村が鶴瀬村、水子村と針ヶ谷村が水谷村、と3村にまとめられました。学校制度や議会制度など社会制度も大きく変わり、村々は近代化の大きな波に呑み込まれていきました。
大正3年、多くの鉄道敷設計画の挫折を経て、ついに東上鉄道が東京と川越を結び、鶴瀬から池袋まで1時間で行けるようになりました。速度と輸送量にまさる鉄道は、新河岸川舟運に変わる輸送の主役となりました。このころから、市内の肥沃な畑で生産されたゴボウは「入間牛旁」の名で知られ、遠く関西まで運ばれるようになりました。
昭和元年、鶴瀬地区に初めて電灯がともり、同4年には東上線も電化されました。自動車も増加し、娯楽として映画が楽しまれるようになるなど、生活が大きく変わり始めました。しかし、第2次大戦が生活の向上を頓挫させ、市域からも多くの犠牲者を出しました。
上の写真は「開通直後の鶴瀬駅」になります。
現代(戦後・平成) 10万人の出会い
敗戦直後、多くの社会制度が変革される傍ら、近郊農村である当地域は、深刻な食糧危機に見舞われた東京への、食料供給基地としての役割を果たしました。特に、昭和17年からの耕地改良により2毛作が可能となった南畑地域には、ジャガ芋や薩摩芋を求めて1日数千人の買い出し部隊が訪れたと伝えられています。
昭和20年代末から政府は町村合併を推進し、入間東部地区でもさまざまな合併案を経て、期限ぎりぎりの昭和31年 (1956)9月に、鶴瀬・南畑・水谷の3村が合併し、富士見村が誕生しました。村名は、村内どこからでも雄大な姿を望むことができる富士山にちなんで付けられました。
現富士見市域の人口は、近代には、明治6年(1873)の約6千人が昭和32年(1957)に約1万1千人と、ゆるやかに増加してきました。昭和32年、日本住宅公団鶴瀬団地の建設をきっかけとするように人口の急増がはじまり、その後わずか20年で人口は6倍に増加し、住宅都市としての性格を強めていきました。全国から職を求めて東京に集まり、富士見に住まいを定めた人々は、各地の習俗を融合しながら新たな文化を創造していきました。昭和30・40年代は生活革命の時代でもありました。家庭電化製品の普及、自動車の普及、プラスチックの多用、和服の衰退など、町も家の中も景観は一変しました。
人口の増加にしたがって、昭和39年に町制、昭和47年に市制が施行されるとともに、水道などの都市施設の整備も進められていきました。平成11年(1999)には、ついに人口が10万人に達しました。
上の写真は「建設直後の鶴瀬第2団地」になります。
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