水子貝塚の調査と保存のあゆみ
最終更新日:2024年5月4日
発見と初期の調査
明治時代の発見記録
水子貝塚は、明治27年(1894)10月25日にこの地を訪れた、遺跡探索を趣味とする元棚倉藩主の阿部正功によって発見され、その後、『東京人類学会雑誌』第10巻第106号に紹介されました。この時は市内の貝塚山遺跡(渡戸1丁目)と水子貝塚を訪れており、その様子は「明治二十七年遺跡探索記」(学習院大学史料館寄託資料)に詳細が記されています。
大正時代の報告
大正6年(1917)、安部立郎(川越の郷土史家)の報告に基づき、水子大応寺前に「貝畑」があると『日本石器時代人民遺物発見地名表』に掲載されました。
昭和戦前に行われた貝塚研究・集落研究のための発掘
昭和12年(1937)、酒詰仲男は安部立郎の報告した地名表から水子貝塚を再認識し、昭和13年(1938)12月、和島誠一等とともに2カ所の貝層を伴う竪穴住居を発掘しました(第1次調査)。その時は16カ所の地点貝塚が馬蹄形に分布する状況を確認しました。
(左)酒詰仲男 (右)和島誠一
1号住居跡(左:貝層、右:床面)
昭和14年(1939)10月、最大の地点貝塚に伴う竪穴住居を中心に発掘しました( 第2次調査)。この第1・2次調査により、地点貝塚を調査していけば集落の全容を明らかにできる遺跡として評価されました。
また第2次調査の直後、この時までに踏査して発見していた打越貝塚(東みずほ台2丁目・現在のみずほ台小学校近辺)も発掘しています。
報告された水子貝塚
水子貝塚で行われた発掘調査の様子や成果は、考古学専門誌の『考古学』第11巻第2号や『貝塚』第5号・第6号に掲載されました。
専門雑誌の目次や記事
昭和20年代の研究で取り上げられた水子貝塚
昭和23年(1948)、和島誠一は論文「原始聚落の構成」を発表し、この中では水子貝塚の地点貝塚分布図が掲載されています。
また酒詰仲男は一般向けに『貝塚の話』を著しました。また、酒詰らが初めてまとめた考古学辞典にも、水子貝塚が紹介されています。
1948年刊、酒詰仲男『貝塚の話』より(右下の図が水子貝塚の住居跡)
1948年発表、和島誠一「原始聚落の構成」より
1951年刊行、『考古学辞典』に掲載された水子貝塚全体図
史跡指定へ
縄文海進研究のための発掘
和島誠一が所属していた財団法人資源科学研究所(資源研)は、昭和39年度(1964)から3年間で「関東地方における自然環境の変遷に関する総合的研究」を行い、縄文海進の最高海水準を明らかにしようとしました。
その中で水子貝塚と打越貝塚も調査対象になり、昭和41年(1966)2月に打越貝塚、昭和42年(1967)1月には水子貝塚の発掘(第3次調査)が行われました。合わせて、上南畑地区で低地のボーリング調査を行い、珪藻化石分析により、縄文時代前期の海面は現在より数メートル高かったと評価しました。
第3次調査
昭和42年(1967)1月に行われた第3次調査では、貝層を伴う前期黒浜式の竪穴住居1軒、諸磯b式の竪穴住居1軒などが発見されました。同時に行ったボーリングステッキによる調査で、貝塚50カ所が確認され、環状にめぐる集落の形態が明らかになりました。
第3次調査。地元の中学校や川越女子高などの生徒も調査に参加した。
第3次調査に基づき描かれた貝塚分布図
国史跡指定
第3次調査終了後、当時の富士見町は水子貝塚について、国史跡指定へ向けた動きを進めていきます。
そして、昭和44年(1969)9月9日の官報告示で国史跡に指定されました。
史跡指定書
史跡整備の経過
史跡整備事業に向けて
地権者は当初、良好な農地を手放したくないとして、指定反対の陳情等を行いましたが、昭和45年(1970)9月に「水子貝塚保存会」を結成し、保存へ協力することになりました。その年から、指定地の公有地化に着手し、史跡整備の第一歩が踏み出されました。
史跡公園整備事業と第4・5次調査
公有地化と並行して史跡の保存や活用のための計画がいくつか作成されました。保存計画の具体的な検討のため、昭和53年に地形測量と地点貝塚の分布調査(第4次調査)、昭和59年(1984)には遺構分布を確認するための試掘調査と地点貝塚の分布調査(第5次調査)を実施しました。また市民に向けての文化財シンポジウムも開催されました。
第5次調査。1メートル間隔でピンポールを突き刺し、貝層の分布を調べました。
公園イメージの変遷
史跡公園の計画図は、環状にめぐる地点貝塚を基礎として広場・復元住居・植栽等を配置するという特徴は保ちつつ、都市公園としてのイメージが強いものから、縄文時代の景観をイメージさせるものへと変化してきました。
昭和45年(1970)に最初に描かれたイメージ図で、日比谷公園のようなデザインです。
上の図の直後に描かれ、中央の噴水はなくなりました。
これも同じ年に描かれましたが、直線的な園路がなくなりました。
昭和53年度(1988)に描かれました。史跡指定地には博物館や駐車場を配置しないようになりました。
平成3年(1991)にまとめた図で、現在の公園の姿です。園路は貝塚の外側のみになりました。
史跡整備のための発掘調査
平成2年度からは史跡整備に伴う展示資料収集を目的とした第6次調査を実施しました。展示館建設地や第15号~第17号住居跡を発掘しました。住居跡からは、良好な貝層と埋葬人骨や犬骨を発見し、水子貝塚を理解する上で貴重な資料を得ることができました。
15~17号住居跡の調査中の写真です。貝層が厚く堆積しています。
縄文ふれあい広場 水子貝塚公園
平成3年(1991)から3カ年で史跡整備工事を実施し、平成6年(1994)6月に「縄文ふれあい広場 水子貝塚公園」として開園しました。
平成10年(1998)、市立考古館を史跡隣接地に移転、平成12年(2000)には水子貝塚資料館と改称しました。
資料館・史跡・自然が一体となった野外博物館的施設となりました。
平成6年(1994)、完成直後の水子貝塚公園です。図面とは逆の方向から撮影しています。
さらに詳しい説明はパンフレットをごらんください。