一品展
最終更新日:2024年9月4日
展示紹介
展示風景
富士見市内で、ほかに同じようなものが見つかっていない「一品」を集めた展示です。
1つしか見つかっていないわけは、その時代の遺跡が少ないとか、分解しやすい材質だとか、もともと珍しいものだったなどの理由が考えられます。
遺跡の調査では、同じようなものが複数見つかって、それらを比較して明らかになることもあれば、一つだけの発見が大きな手掛かりとなることもあります。
ひとつひとつの資料が何を教えてくれるのでしょうか。
なお、展示は令和6年度博物館実習生によります。
展示場所:資料館展示室
展示期間:令和6(2024)年9月1日(日曜日)~12月1日(日曜日)
縄文時代中期(約5000年前)の土器です。松ノ木遺跡(西みずほ台)で出土しました。
普通の縄文土器と比べると、下半分を失った土器のように見えますが、底から口まで、ほぼ全体が残った土器です。珍しい形であることに加えて、模様が、栃木県から福島県にかけての地域の特徴を示しています。その地域から持ち込まれたか、その地域から来た人が作ったように思われます。
弥生時代中期(約2000年前)の石鏃(やじり)です。欠損している部分を樹脂で補って、本来の形を示しています。北通遺跡(針ケ谷)で出土しました。
市内でその頃の住居跡は、隣の南通遺跡で数軒見つかっているだけです。北通遺跡では、それより200年くらいあとの弥生時代後期の住居跡などから、中期の土器や石器が数点みつかっています。なぜ、そこにあるのかが未解明です。
弥生時代後期には石器が使われなくなったので、鉄器が普及したと考えられていますが、大切にリサイクルしたためか、ほとんど、遺跡から見つかりません。古墳時代も、古墳には鉄製品が副葬されますが、集落跡からはほとんど見つかりません。
奈良・平安時代には、各地で製鉄が行われるようになり、普通の集落跡からも鉄器が見つかるようになりますが、ほとんどは小さなかけらです。
写真左は、東台遺跡(大字水子)から見つかった、平安時代前期(約1200年前)の刀の鍔です。
写真右は、谷津遺跡(鶴瀬東)から見つかった、平安時代前期(約1200年前)の鍬(または鋤)の刃です。
当時の集落が農村であるとともに、刀を持った人がいたことがわかります。
奈良時代から平安時代の初めにかけて、公的な役がある人は、革帯(ベルト)を腰にしめました。
ベルトには、現在のバックルにあたる「かこ」(注記)のほか、帯の表面に、金属や石で作った飾りを付けました。
飾りに使える材質は、身分によって決まっていました。
写真1は、鉄製の「かこ」と、鉄製帯金具と思われるもの。写真2は、石製の巡方(四角い帯飾り)です。いずれも東台遺跡から見つかった平安時代前半(約1200年前)のものです。
当時は、「郡」の下に「郷」といういくつかの集落をまとめた行政単位があり、その代表は「郷長」と呼ばれました。この地域にも、郷長か、それに近い立場の人がいたのかもしれません。
(注記) 「かこ」の「か」は金偏に交という字、「こ」は「具」
かつて衣服は、その材料の糸からすべて、自家製でした。糸の材料は麻などの繊維で、それに撚りをかけて糸にしました。
糸を作る(つむぐ)ための道具が紡錘です。紡錘は、木製などの軸と、回転に勢いをつけるための紡錘車からできています。繊維を紡錘につなげた状態で紡錘を回転させて撚りをかけ、それを紡錘に巻き付け、繊維を継ぎ足す、ということを繰り返して、糸ができあがっていきます。紡錘車には重みが必要で、かつ、円形に仕上げる必要があるので、軟らかい石が多用されました。その表面には、まれに、鉄のようなもので引っかいて文字が書かれていることがあります。
写真の紡錘車は、栗谷ツ遺跡(大字水子)から見つかった奈良時代(約1250年前)のものです。文字のようなものがたくさんありますが、文字として読み取ることができないでいます。あるいは、文字をまねしただけなのかもしれません。
弥生時代に稲作が伝わってから古墳時代前半までは、米は土器で煮て(炊いて)食べていました。
古墳時代の中ごろ(約1600年前)にカマドが伝わると、米は蒸して食べるようになり、平安時代まで続きました。
米を蒸すために使われたのが、底に穴があいた甑です。古墳時代の甑は土器で作られ、遺跡から普通に見つかります。奈良時代以降、曲げ物(薄くはいだ木材を円形に曲げて綴じた容器)の甑が普通になったようで、遺跡でほとんど見つからなくなります。まれに、窯で焼いた須恵器という土器による甑が見つかります。
写真の資料は、氷川前遺跡(大字水子)で見つかった平安時代(約1200年前)の須恵器の甑です。形は古墳時代の甑につながることから、儀式などのために古風な道具を使ったのかもしれません。