難波田城資料館の「私年号板碑」が新聞で紹介されました
最終更新日:2024年1月31日
平成31年3月21日、全国紙の新聞で、当館所蔵の「私年号板碑」が紹介されました。
確認した記事
読売新聞[東京本社版]3月21日朝刊34面(文化面)
ネット版“[日本人と元号]<下> 乱世物語る 3元号並立”(現在は公開を終了しています)
解説
私年号とは
戦国時代には、朝廷が定めたものと異なる年号が流布することがありました。それらを「私年号」と呼びます。戦乱や災害が続いている時期に改元の噂が流れると、信じられやすかったといわれます。
板碑とは
鎌倉時代から戦国時代に盛んに作られた、板状の石碑です。塔婆の形で、上部に仏を示す梵字を刻み、下部に年月日や人名、経文などを刻みます。仏への信仰や、死者の供養のために建てられました。富士見市内で、これまで六百点以上が見つかっています。
福徳年号板碑
新聞で紹介された板碑は、難波田城資料館常設展示室でごらんいただけます。難波田城跡で発見されたものです。高さ66センチとやや小振りで、「妙鏡禅尼」という女性の戒名(法名)が刻まれています。カラー写真で、文字が金色や黒色に見えますが、これは下地に接着剤として漆を塗ってから金泥(金粉を膠で溶いたもの)を塗った名残です。辛亥という干支も刻まれていることから、1491年(延徳3年)に作られたものと考えられます。
「福徳」年号を持つ板碑は、埼玉南部から多摩を中心に分布し、50例以上が知られています。そのうち6例が富士見市内で見つかっています(詳しくは平成16年春季企画展図録『富士見之板碑』をご覧ください)。市内の板碑を年代順に並べると、延徳2年(1490)3月の日付を持つ板碑の次に、福徳元年庚戌(1490)12月の板碑があります。そして福徳2年の板碑が4例あるのに、延徳3年と刻まれた板碑はありません。この地域では「福徳」に改元したと信じられていた可能性があります。
福徳への願い
「福徳」の2文字は、良い意味の字の連なりで、いかにも年号らしい雰囲気です。しかし、意外なことに、公式の年号で「福」が用いられたことは一度しかありません(天福:1233-1234年)。
この時代、福・徳の2文字とも、現在以上に経済的なニュアンスがありました。福神は貧乏神と対になる、豊かさをもたらす神であり、富んだ人を「有徳者」、借金帳消令を徳政令と呼ぶなどです。その背景として、貨幣経済の浸透による貧富の格差も拡大していました。
また、この頃の関東地方は、二大勢力の対立による戦乱が続いていました。相次ぐ災害や飢饉の記録も残されています。
そのような情勢であったからこそ、豊かさを意味する年号へ改元したという情報が、広まりやすかったと想像できます。